「あいつは絶対負けるだろう」周囲の誰もがそう思っている状況で、下馬評をことごとく覆し、大番狂わせを起こしてくれる1人のファイターがいる。
彼の名は所英男。“逆境ファイター”と呼ばれる所は、格闘家人生の中で何度も逆境へと立ち向かい、壁を乗り越えてきた。お金がなく、10年間も家賃を滞納していたけれど、格闘家としての成功を決して諦めなかった。交通事故に遭い、休養が必要と診断されても休まずリングに上がった。どんなに格上のファイターを相手にしても、最後までリング上で接戦を演じ、最後には勝利を掴み取ってきた。
そんな数々の逆境を乗り越えてきた所の人生だが、彼の強さの原点は一体どこにあるのだろうか。答えは、所の人生の歴史を紐解いていくことで見えてくる。今回の記事では、所英男というファイターの生い立ちから、格闘家としての歩み、そして今後の展望を紹介していく。
※画像URL:https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16782696/rc/2020/12/31/24e4dce34b4d4e9a0cb26f053ec1e3e9889db93c_xlarge.jpg(RIZIN公式HPより引用)
まずは、プロフィールから見ていこう。
所英男のプロフィール
名前 : 所英男
生年月日 : 1977年8月22日
出身地 : 岐阜県揖斐郡揖斐川町
身長 : 170cm
体重 : 57.0kg
戦績 : 66戦 35勝(5KO) 32負1分け
階級 : フェザー級→バンタム級、フライ級
所属 : リバーサルジム武蔵小杉 所プラス
獲得タイトル : なし
入場曲 : 逆境ファイター
バックボーン : 総合格闘技
公式HP : −
Twitter : 所英男
Instagram : 所英男
YouTube : −
アパレル : −
ファンクラブ : −
HERO’S・DREAM・Bellator時代
野球少年から格闘家へ
岐阜県の揖斐川町で生まれた所は、高校時代まで野球に打ち込んでいた。プロ野球選手を本気で目指していた所は、高校3年生の時に大学野球のセレクションを受験。しかし、結果は不合格となり、野球選手の夢をここで諦めることになる。
進路について悩んでいた所だったが、実家がクリーニング店を営んでいたこともあり、所は東京に上京し、クリーニング専門学校に通うことを決める。そして卒業後、東京のクリーニング店で正社員として働き始めたが、そこで所に転機が訪れる。働いていた店舗の近くに格闘技ジムがあり、練習や試合を何回か見学させてもらう機会があったのだ。リングでの気迫と気迫のぶつかり合いを間近で見た所は、段々と格闘技に心惹かれていく。そして21歳の時、所はジムの門を叩き、プロを目指すことを決意する。
たったの2年でプロデビューへ
所自身、全くの未経験からのスタートだったが、彼には確かな格闘技の才能があった。短い期間でMMAに必要な打撃力やグラウンドスキルを習得すると、アマチュアとして数々の大会に出場。そして、出場の度に優勝を重ねた所は、たったの2年でプロデビューを果たす。しかし、順調にプロまで辿り着いた一方で、本業のクリーニングと格闘技の両立が難しくなっていたことも事実だった。そこで、プロの格闘家としてはまだ稼ぎが少なかったにも関わらず、思い切ってクリーニングの仕事を辞め、時間の融通が利く交通整理などのアルバイトを始めることとなった。
2002年から所は、旗揚げされたばかりの総合格闘技団体ZSTに参戦し、プロとしての経験を積んでいく。ZSTは「ただ勝ち負けにこだわるのではなく、アグレッシブな試合でファンを楽しませる」というコンセプトを掲げている格闘技団体。ZST参戦直後の所は、プロの洗礼を受け、苦汁を飲む試合が多かったが、所の積極的に攻めるファイトスタイルは、確かにこの時期に形成されていった。そして、地道な努力を続けた所は、2004年にZSTトーナメントで初優勝を果たし、一気に知名度を上げる。また所は、「ZST四兄弟」(矢野卓見、今成正和、所英男、小谷直之)の1人として数えられ、その実力が周囲に認められ始めていた。さらなる高みを目指した所は、戦いの舞台をHERO’Sへと移す。
HERO’Sでの新たな戦い
2005年、所のHERO’Sミドル級世界王者決定トーナメント参戦が決まった。その1回戦の相手は、アレッシャンドリ・フランカ・ノゲイラ。当時のノゲイラは、修斗世界ライト級王座を6年もの間、防衛し続けている絶対王者。ノゲイラがトーナメントの優勝候補の筆頭でもあり、誰もがノゲイラの圧勝劇を予想していた。
しかし、ノゲイラへの挑戦が、所の人生を大きく変えることになる。いざ試合開始のゴングが鳴ると、ノゲイラペースで進むと思われた試合は、予想に反して両者が激しく打ち合う展開へ。激闘は本戦では決着がつかず、延長へともつれ込んだが、すぐに試合は幕を閉じた。延長1ラウンド、開始1分も経たない内に、所のバックブローがノゲイラの顔面に炸裂。倒れたノゲイラに、所がパウンドを浴びせようとした瞬間にレフェリーがストップ。TKO勝利という大番狂わせを起こした所は、6年間守られてきた絶対的王者の牙城を一夜にして崩してみせたのだ。
実はこの時の所は、未だにアルバイトをしながら格闘技を続けている、いわばフリーターでもあった。そんな事情も相まって、「フリーターが世界王者を倒した」という斬新なニュースは世間に広がり、所はその日を境にしてスターとなった。まさにシンデレラボーイだった。
その後、HERO’Sの舞台で所は、派手な戦いではなく、粘り強くダメージを与える泥臭いファイトスタイルで勝利を重ねた。2005年の大晦日には、ホイス・グレイシーと対戦した。グレイシーとは17kg以上の体重差があり、圧倒的に所が不利な対戦だったが、それでも所は逆境へと立ち向かった。組みや打撃でも劣勢になることなく、体重差を感じさせない試合運びを所は見せ、互角にグレイシーと渡り合った。結果、判定決着なしのルールで行われた試合は、引き分けで幕を閉じた。しかし、重量差を考えれば、所にとっては勝ちに等しい引き分けだった。
そして、2007年12月31日、格闘家としてキャリアを順調に積み重ねていた所は、ついに田村潔司と対戦カードが決まった。実は田村は、所が格闘技を始める前からずっと憧れていた存在。田村の“回転体”と呼ばれる卓越したグラウンドスキルには他を圧倒する力があり、それを武器に田村は、格闘技団体リングスの初代・第3代の無差別級王者にも輝いていた。
所は試合前、「これは一生に一度のチャンス。やる以上は勝つという強い気持ちを持って戦う」と語り、覚悟を持っていた。しかし試合が始まると、所は終始攻め手を欠く。憧れの田村を前にして、なすすべなく、最後はアームバーを極められ一本負け。待望の一戦は、あまりに呆気なく決着がついたのだ。もしかしたら、順調にキャリアを積み重ねていた所には、慢心があったのかもしれない。田村との一戦は、所自身がまだまだ未熟なファイターであることを改めて痛感させられる試合となった。
戦いの舞台はDREAMへ
次なる舞台として、DREAMへの参戦を決めた所。所はこの頃から、自らの勝利で周囲の格闘家たちに勇気を与えて始めていた。例えば、2009年にキム・ジョンマンに判定勝ちを収めた直後のリング上では、所は練習仲間のプロボクサー・内藤大助に現役続行を求めるメッセージを送っていた。さらには2010年、渡辺一久に一本勝ちを収めた時は、がんで闘病中の練習仲間・宮下トモヤへのエールを送ることもあった。こういった仲間想いな一面がある所は、1人の人間としてファンから愛されるようになっていった。
そして、2011年2月には現在の妻と結婚。さらに同年6月には、所が代表を務めるジム「リバーサルジム武蔵小杉 所プラス」をオープンさせ、公私ともに充実した環境を整えていった。
ファイターとして脂が乗っているこの時期に、所はDREAM JAPAN GPのバンタム級日本トーナメントへの参戦を決める。所の目標はただ1つ、トーナメント優勝だった。1回戦では、元パンクラスフェザー級王者の前田吉朗と対戦し、2ラウンドTKO勝ちを収める。そして、同日に行われた準決勝。相手は、一度黒星を喫したこともある山本篤だったが、2-1の判定勝ちでリベンジを果たす。いよいよ、トーナメントの決勝に駒を進めた。
そして迎えた決戦の日。相手は、かつて「ZST4兄弟」としてZSTの舞台を盛り上げてきた今成正和だった。今成と所は、10年近く練習仲間としてスパーリングを繰り返してきた長年の同志であり、一方で最高のライバルでもあった。格闘技界の最前線で戦ってきた2人の対決には、日本国内で大きな注目が集まった。
いざ試合のゴングが鳴ると、所はすぐさま飛び蹴りを今成に見舞い、会場が湧く。その後、今成が躍動感あふれる二段蹴りを放てば、所はストレートをカウンターで合わせ、両者互角の展開が続く。2ラウンド、所が強力なフックをヒットさせると、今成は一瞬体勢を崩す。しかし、今成も意地で立て直すと、所に強烈なタックルを決めて、そのままアキレス腱固めで仕留めにかかる。しかし、所も鬼の形相でこれに抗い、なんとか所の絞め技を抜ける。両者の意地のぶつかり合いは最後まで続き、決着は判定へと委ねられた。
結果は、3-0で所の勝利! 試合後、所と今成は笑顔で握手し、互いに健闘を称えあった。リング上でマイクを持った所は「こういう満員のお客さんの前で試合が出来るのが凄く嬉しい」と語り、勝った喜びに加えて、大舞台で試合ができる喜びを身に染みて感じていた。
その後も所は、勢いそのままにDREAMの舞台で勝ち星を重ねていく。特に、「修斗のカリスマ」と呼ばれた佐藤ルミナに39秒KO勝ちを収めたり、後にUFCでも活躍するカンプザーノを相手に接戦を繰り広げたりして、日本を熱狂の渦に巻き込んでいった。
世界への挑戦
そして2014年、所は戦いの舞台を世界へと移すことになる。アメリカの総合格闘技団体Bellatorとの契約を発表した所は、オクラホマ州で開催される大会でL・C・デイビスと対戦することが決まった。デイビスはBellatorで6勝1敗と、高い勝率を誇るファイター。アメリカの舞台で、所がデイビス相手にどんな試合を繰り広げるのか。所の世界へ挑戦には期待が高まっていた。
そして、この試合は、歴史に刻まれる大激戦となる。試合開始早々から、ディビスの右ストレートと所の左ストレートの激しい打ち合いが続く。デイビスがタックルを仕掛ければ、逆に所はデイビスを捕まえてアームロックを極めにかかる。ディビスが脱出すると、所にフロントチョークを狙うなど、2人の間でめまぐるしく攻守が入れ替わり、会場は熱狂に包まれる。その後も、両者一歩も引かないパンチの応酬が終始続き、そのまま試合終了のゴングが鳴った。
判定が告げられる前には、場内がスタンディングオベーションで包まれ、両者に盛大な拍手が送られていた。そして、運命の判定は、2-1の僅差でディビスに軍配が上がった。惜敗した所だったが、アメリカの格闘技ファンの前で大きなインパクトを残した。さらに、このデイビスと所のこの一戦は、2015年のBellator年間ベストバウトにも選出された。所も試合後、「思いっきり自由に闘えた。反省も多いですが、久しぶりに出し切れた試合でした」と語り、その表情は清々しさで溢れていた。
歴史に刻まれるほどの試合を演じてみせた所だったが、Bellatorの試合にはそれ以降出場せず、日本に戻ることを決めたのだ。これには、明確な理由があった。2015年、それは日本で新しい格闘技団体RIZINが設立された年でもあった。設立当初からRIZINには国内外のトップファイターが集結しており、当然、所もその1人だった。日本の格闘技をさらに盛り上げるべく、所はRIZINの舞台へと挑むことになる。
RIZIN参戦後の戦い
若手選手たちに、格闘技の厳しさを
2015年12月、RIZINでの初戦を迎えた所の相手は、才賀紀左衛門だった。才賀は、空手をバックボーンに持ち、K-1で実績を積み上げてきた26歳のファイター。12歳という年齢差が対決前に注目を集めたが、試合は呆気なく終わりを迎える。1ラウンド途中、所が腕ひしぎ十字固めを極めて、圧巻の貫禄勝ちを見せたのだ。両者の間には、明らかな経験値の差があった。ベテランの所は、やはり落ち着いた様子で終始試合をコントロールし、若手の手本となるような振る舞いを見せていた。
2016年の大晦日には、所と山本アーセンの対戦カードが決定した。才賀と同様、アーセンもまだ20歳の若手ファイター。若手の勢いが上回るのか、それともベテランの経験値が上回るのか、この一戦は世代交代の懸かった試合と評されていた。また、アーセンの叔父は、言わずと知れた伝説のファイター・山本“KID”徳郁だ。試合前、所は「もしアーセン選手に勝ったら、山本“KID”徳郁さんと対戦がしたい。そのためにも今回の試合は絶対に落とせない」と語り、KIDへの挑戦を示唆していた。
いざ始まった試合は、予想に反し、最初の1ラウンドで勝敗が決まった。開始から、アーセンは前後にステップを踏み、攻撃のチャンスをうかがう。所も遠い距離から右ローを放ち、アーセンの様子を見る。そして、試合動く。アーセンが飛び込みながら放った右ストレートが所の顔面を捉える。体勢を崩した所に、すかさずアーセンが仕留めに掛かろうとするが、百戦錬磨の所はやはり落ち着いていた。アーセンは所の上に乗っていたが、所は下から素早く腕十字を仕掛ける。アーセンは意表を突かれたのか、所に絞め技を見事に極まり、試合が終了。ベテラン・所の鮮やかな一本勝ちで試合は幕を閉じた。
才賀やアーセンなどの若手ファイターを相手に勝利を収める所は、まるで彼らに総合格闘技の厳しさを伝えているかのようだった。「MMAでは、若気の勢いは確かに大切だけれど、勢いだけでは決して勝てない世界なんだ」そんな厳しくも愛のあるメッセージを送っているように、所の姿はファンの目に写っていた。
また、アーセンとの試合後、所は「10年間追い続けているKIDさん、RIZINで僕と試合をしてください。日本の格闘技界を一緒に盛り上げましょう」と、アーセンのセコンドに就いていた山本“KID”徳郁へ対戦をアピールした。しかし、結果的に2人の対戦が実現することはなかった。実は、この時すでに、KIDは癌の闘病中だったのだ。少し先の話だが、2018年9月にKIDは息を引き取ることになる。長年、KIDへの憧れを抱いていた所は、彼の死に直面し「少しでも頑張れるうちは頑張りたい」と考えるようになり、年齢関係なく現役で戦うことにこだわるようになった。
日本最強のファイターとの一戦
2017年7月、所のRIZINバンタム級トーナメントへの参戦が決定する。そして1回戦の相手は、堀口恭司だった。堀口は、UFCでフライ級王座に挑戦し、ランキングでも常に上位にいた世界トップクラスのファイター。トーナメントを前にして、堀口は「ぶっちぎりの強さを見せて優勝する。所選手を尊敬していますが、いつまでもHERO’Sの選手が活躍していても面白くないと思うので、新しい世代の強さを見せます」と語り、ベテランを煽るほどの圧倒的な自信を見せた。
対する所は試合前、「100人のうち99人は、堀口選手が勝つと思うでしょうが、その1回を今回出したい。堀口選手に勝てる日本人は僕しかいない」と、大番狂わせを誓った。
実際、所のファンの間では、「所なら本当にやってくれるんじゃなか」という期待があった。その期待の根拠は、紛れもなく12年前の「所VSノゲイラ」の一戦だ。絶対王者と呼ばれるノゲイラを、プロデビュー直後でフリーターでもあった所が撃破した試合は、所の持つ底知れぬ潜在能力の高さを証明していた。堀口との一戦は、逆境に強い所の本領が発揮されるのではないか、と大きな期待が高まっていた。
1ラウンド、大きなスタンスで前後に独特なステップを踏むのは堀口。対する所も、ボクシング式のフットワークで様子をうかがう。すると堀口は、UFC仕込みの打撃を見せる。素早い飛び込みからパンチを繰り出すと、所もこれをかわすのが精一杯。なんとか所は堀口のパンチにカウンターを合わせようとするが、堀口の俊敏さが上回り、決まらない。
そして、試合が動く。堀口が前蹴りを放ちながら距離を詰めてきたところに、所はカウンターフックを狙う。しかし、堀口はそのカウンターすらも読んでいた。寸前で所のフックをかわし、右フックを所の顔面にヒット。そして、この一撃で所はダウン。堀口はすかさずパウンドを叩き込み、ここでレフェリーが試合を止める。堀口が圧倒的な実力差を見せつけ、所は敗北を喫した。
試合後、所は「堀口選手は本当に強かった。試合が決まってから2カ月必死に練習できて、きつかったけど楽しかった。だから、堀口選手に感謝している。やれてよかった」と語り、日本のトップファイターと対戦できた喜びを語っていた。そして、39歳だった所の今後の去就についても注目が集まったが、所は現役を続けることを選んだ。
次なる相手は、オリンピックメダリスト
堀口戦から約3年、2020年の大晦日の舞台に所は戻ってきた。その対戦相手は、太田忍。太田は、リオデジャネイロオリンピックのレスリング59kg級にて銀メダルを獲得したレスリングエリート。その後、MMA転向を表明した太田だが、所との大晦日の一戦は、太田にとってはMMAのデビュー戦でもあった。
試合前、所は太田に対して「レスリングとは違う世界で慣れないことをやるので、僕との試合で流れをつかんでほしい。試合に挑む感じとか、総合格闘技の試合の感じとか。そういうのをつかんでもらえたら」と語り、これからの格闘技界を背負うであろう太田へのメッセージを送った。
いざ、試合開始のゴングが鳴る。1ラウンド、オーソドックスに構える所は、太田の攻撃にカウンターを合わせ、右ストレートをいきなりヒット。太田は一瞬ダウンするも、すぐに立ち上がる。太田は持ち前のレスリング仕込みのタックルで所に組みついてテイクダウンを奪うと、一気に踏みつけを狙う。しかし、所はこれをかわし、スタンドに戻ると、再度フックを当てて太田の体勢を崩し、さらに跳びヒザを放つ。所が試合の主導権を握ったまま、1ラウンドが終了。
2ラウンド、1ラウンドと同様に、太田は得意の組みからテイクダウンを奪い、グラウンドの展開へ。しかし、所はここでも経験値の差を見せつける。そのまま、組み合いの中で所は太田に腕十字を仕掛け、その後は裏十字へ。太田も必死に抵抗を試みるが、所はしっかりと絞め技を極めてみせ、圧巻の2ラウンド途中一本勝ちを収めた。
試合後、所は「太田忍選手、今日は実力を出せなかったと思うのですが、また来月とか再来月やったら違う結果になると思います。引き続き格闘技頑張ってやっていきましょう」とデビュー仕立てのファイターにエールを送った。
所は今現在、44歳。同年代で活躍していた選手たちが次々に引退するなか、所は現役にこだわっている。所はインタビューの中で、「何もできない僕ですが、試合することによって周りの方々に協力してもらったり応援してもらったり喜んでもらえて、格闘技ってやっぱりいいなと思っている」と格闘技の素晴らしさを語っている。
所はこれまで数々の逆境を跳ね返してきたレジェンドだ。そして何より、逆境に立ち向かう姿勢は、ベテランファイターに勇気を与え、若手ファイターに格闘技の何たるかを教えてきた。所は、これからの格闘技界でも、やはり現役として必要な存在だ。
もしかしたら今後、まだ誰も予想していない逆境に、所は直面することがあるかもしれない。しかし、所なら、その逆境を乗り越えられる。誰もが確信を持ってそう言える。これからの所の活躍に大きな期待がかかる。
所英男の知りたいトコ!
お笑いコンビ・バナナマンの日村勇紀と仲が良い!?
実は、所はお笑い芸人の日村勇紀と仲が良い。きっかけは、日村が開いた飲み会だ。格闘技を見るのが好きな日村は、後輩芸人のコネを使い、所を飲み会に誘っていた。一緒になった日村と所は、酒の席ですぐに意気投合し、そこから長い付き合いが始まる。基本的に2人の会話は、お笑いの話でもなく格闘技の話でもなければ、女の子の話を延々にしているという。所は、「会話のレベルは小学2年生くらい」と語っているが、そんな仲睦まじい様子をこれからもずっと見せてほしい。
交通事故の一週間後に試合に出場!?
2008年7月、所は自家用車の運転中に、後続の車に追突される交通事故に遭った。追突の勢いはかなり強く、所の車も前方の車に衝突する三重追突事故にもなっていた。病院の精密検査では、全治1週間の腰痛の怪我と診断されたが、5日後に山崎剛との試合を控えていた所は、なんと事故翌日に練習に復帰。さらに試合当日を迎えると、山崎に判定勝利を収めてみせた。現在、“逆境ファイター”と呼ばれている所だが、その名の通り、本当に逆境に強いことが分かる出来事だった。
闘うフリーターと呼ばれていた!?
所の名前が一躍世間に広まったのは、2005年に修斗世界王者のノゲイラを撃破した時だ。この時はまだ、所はビル清掃や交通整理のアルバイトで生計を立てているフリーターでもあった。実際、所の生活は厳しく、家賃を10年滞納したり、ジムの会費を払えなかったりしたこともあったという。
ノゲイラを撃破すると、「フリーターがチャンピオンを倒した!」という噂が日本中を駆け巡り、所はその頃から”闘うフリーター”と呼ばれるようになった。実は、ノゲイラに勝利した翌年の2006年からは、ファイトマネーで生活ができるようになり、フリーターではなくなったそうだ。しかし、一度ついた愛称はなかなか払拭できないものであり、今でも”闘うフリーター”と呼ばれることは少なからずある。
まとめ
野球少年だった所は、格闘技とは無縁の幼少期を送っていた。しかし、社会人になり、東京のクリーニング店で働き始めた時、格闘技ジムが偶然店の近くにあったことで所の運命が大きく変わった。
全くの未経験から2年でプロデビューを果たすと、当時世界王者のノゲイラから大金星を上げたり、Bellatorで年間ベストバウトに選出されたり、誰にも予想していなかった、波瀾万丈なキャリアを送ってきた。RIZINの舞台では、ベテランファイターとして、同年代の選手に現役を続ける勇気を与え、若い選手にはMMAの厳しさをリング上で教えている。
「総合格闘技に年齢は関係ない」そんな強いメッセージを送るかのように、今日も所は練習に励んでいる。所のこれからの活躍に、目が離せない。
※画像URL:https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16782696/rc/2022/07/31/9ed28a27a0cdba1524bc18a59f2a73281a17f35d_xlarge.jpg(RIZIN公式HPより引用)
※アイキャッチはRIZINの公式HPより引用